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「正しいこと」

―イラク戦争は「正義」のために必要であった―

鈴木 紗也 (平成22年8月10日)

 

 

.はじめに

 世の中には決定的な理由もないまま、「正しい」あるいは「正しくない」と決めつけられていることが多くある。例を挙げて「正しいこと」の曖昧さを説明し、「正しいこと」、つまり「正義」の主張の裏には「悪」の存在が必要であることを述べる。「正しくないこと」、つまり「悪」の代表は「戦争」だ。戦争の前提となる武力行使をめぐる考えや歴史をまとめた上で、実際に起きたイラク戦争を考える。イラク戦争は「正義」のために必要だったということを主張したい。

 

 

.「正しいこと」

 

2−a 「正しい」とはどういうことなのだろうか

 人間は、「正しい」ということが気になる生き物らしい。考えてみれば不思議な話だ。自然界に「正義」なんてものは存在しない。「強さが正義」なんていうのは、人間が自然界を見て勝手に想像しているだけのものだろう。「生きるか、死ぬか」「食うか、食われるか」というのはあるとしても、別にそれは正義と関係がない。どちらかの事実があるだけだ。

でもわれわれは「正しい」のかどうかが気になる。

「正しい」ことがあるということは、正しくないこと、つまり「してはいけないこと」があるということでもある。どうしてそんなことを気にかけるのだろう。どうして、思いのままに、自由に生きようとしないのだろう。われわれは成長するにしたがって、いつの間にか、なんの疑問も持たずに「してはいけない」と信じていることがある。物を盗むこと、嘘をつくこと、人を殺すことなど、例を挙げればきりがない。

 

2−b 「正しいこと」をする

「正しいこと」をすることの難しさをよく反映している事例を一つ挙げる。2005年6月、アフガニスタンでのこと。マーカス・ラトレル二等兵曹は、米海軍特殊部隊のほかのメンバー3人とともに、タリバン指導者の捜索にでかけた。情報によれば、彼は150人程度の重武装した兵士とともに、山岳地帯の村にいるとのことだった。捜索をはじめて間もなく、100頭ほどのヤギを連れた農夫と少年にでくわした。非武装の民間人だが、もし解放すれば米軍の存在をタリバン指導者たちに知らせてしまうリスクがあった。選択肢は解放するか殺すかのどちらかであり、殺すことに賛成が1票、反対が1票、棄権が1票となった。ラトレルは、任務を確実に完遂するために殺すべきだとわかっていたが、キリスト教徒としての良心に従い、反対に票を投じた。解放してしばらくした後、4人の兵士は100人ほどの武装したタリバン兵に包囲され、銃撃戦となった。また、救助にきたヘリコプターも撃墜され、ラトレルを除く16人のアメリカ兵が命を落とした。

この場合、アメリカ兵の立場から結果的に考えれば、非武装の農夫と少年をその場で殺すことが「正しいこと」であったといえる。しかし例えば彼らを殺したうえで任務が無事に遂行されたとして、ラトレルは良心を痛めずにいられたであろうか。私たちは犠牲になった二つの命を、任務遂行のためにしかたない犠牲だったと納得することができるだろうか。

 

2−c 曖昧な定義

この世界には「正義」や「正しい」という言葉で、曖昧に解決されている問題がたくさんある。「正義」とは「正しい道義。人が従うべき正しい道理」[1]、「正しい」とは「@道徳・倫理・法律などにかなっている。よこしまでない。A真理・事実に合致している。誤りがない。B標準・規準・規範・儀礼などに合致している。C筋道が通っている。筋がはっきりとたどれる。D最も目的にかなったやり方である。一番効果のある方法である。Eゆがんだり乱れたりしていない。格好がきちんと整っている」[2]ということらしい。この一般的な辞書的な意味からしても、曖昧である。「正義」の意味に「人が従うべき」という文が含まれているが、この文は個人の良心に従った自己判断に任せると言っているように思える。また、「正しい」の意味もかなり大雑把である。しかし「正しさ」や「正義」が「悪いこと」だという人はいないはずだ。誰でも「正しさ」や「正義」は「良いこと」だというはずだ。

 

2−d 「悪」があってこその「正義」

「『正義は勝つ』『悪を滅ぼして正義を示す』。これらはよく見かける言い方だ。だが、もし正義がそういうものでしかないとしたら、正義は悪に依存することになる。悪に勝ったり、悪を滅ぼしたりしないと存在することができないのだから。こういう類の正義観をわたしは、暗黒的正義観と呼んでいる。それは、正義を暗黒、悪を光として扱うものだ。光があって、はじめて影が生じるのだから。」[3]という考え方がある。

ここで戦争を考えてみる。戦争は前に述べた窃盗や殺人と同じように、いつの間にか浸透した「してはいけないこと」に含まれると言える。しかし戦争を仕掛ける国家や団体は、損をしようと戦争をするわけではない。純粋に悪に制裁を加える目的のほか、アイデンティティを守るため、自国の強さを主唱するためなど、目的はさまざまである。共通しているのは、それらの目的が戦争を仕掛ける側にとって正義であるということだ。そしてその正義が実現されたことを証明するために、悪の存在が必要なのだ。悪を滅ぼすことではじめて、十分な制裁を加えたこと、アイデンティティを守ることができたこと、自国は強いことが証明される。ここで戦争に焦点をあてて考えていく。

 

 

.戦争をする理由

 

3−a 平和のための戦争

かつて、平和とは戦争をしないことだった。侵さず、殺さず、奪わぬことこそが、「平和」だった。1920年に国際連盟が成立し、集団安全保障という考え方が登場して以降は、それに「侵略を鎮圧すること」という意味内容がつけ加えられた。「侵さないこと」に加え、「侵した国を罰すること」が平和の重要な要素となったのである。

それらはいずれも、国家間のルールを守り、守らせるところに主眼があった。別の言い方をすれば、国々が相互にそういうルールを守り合ってさえすれば、国の中でいかにひどいことが起こっていようと、「平和」は保たれていることになっていたのである。国際法的に見るならそれは、侵略と戦争の違法化、武力行使の禁止、他国への干渉の禁止、主権の尊重といった原則の確立強化を意味する。

また、思想的に見た場合、それはある程度まで絶対平和主義の立場に重なっている。侵さない、干渉しないということは、いかなる場合でも武力を行使しないということであり、それは絶対平和主義の核心でもある。これに対し、集団安全保障に基づいて「侵した国を罰する」ような「平和」は、おそらく絶対平和主義とは相いれないだろう。

 

3−b 武力行使の違法化

 17世紀頃まで、国際法の世界には法的に許される戦争(正戦)と許されない戦争(不正戦)とがあった。それは正戦なら戦ってもかまわないという法体制だから、武力不行使を根本原則とする体制とは異なる。しかし、18世紀頃から崩れ始め、戦争に正しいも正しくないもないという、「無差別戦争論」にとって替わられた。無差別戦争論とは戦争の善悪の判断を放棄することであり、それによって戦争を法の制約から解放し、結果的にいわば戦争自由を原則化するに等しいものだったからである。

 20世紀に入り、この戦争自由体制にようやく変化が生じた。まず、第一次世界大戦のあとに成立した国際連盟規約のもとで、一定の範囲の戦争が違法とみなされることになる。国際裁判の判決に従う国に対してしかける戦争などである。しかし戦争と呼ばなければ武力行使をしてよいのだという詭弁的な解釈が現れるなど、実際的な効果には乏しいままだった。

 さらに第二次世界大戦が起き、世界は戦争法の根本的な刷新を迫られる。それに応えて国連憲章が用意したのは、「戦争」よりも範囲の広い「武力行使」(および武力による威嚇)を禁止する法規定だった。しかもそれは、「正・不正の判定ができないならすべての戦争を正しいとみなそう」という無差別戦争観を乗り越え、「正・不正の判定ができないならすべての戦争(さらには武力行使)を正しくないとみなそう」とするものであり、その意味で正戦論の否定にまで至るものだった。

 もっとも、「正戦の否定」という点に関しては、ひとつ大きな限定がつく。禁止されるのは国々の武力の行使であって、国連の行なう武力行使ではない、という点である。侵略や平和を脅かす行為があった場合は、国連が兵力を組織して鎮圧にあたることが予定されていて、しかも加盟国はそれに対してあらゆる援助を与えなければならない。国連のこのような行動を強制行動と呼ぶが、それは国々の不正をただすための武力行使である。その限りで国連の武力行使は、いわば正戦に類するものとなる。国連憲章は、国々に関しては正戦論を否定したが、国連自身の行動に関しては、むしろ新しい正戦論をうち立てたのである。

 

3−c 国連の武力行使

絶対平和主義と相いれない代表例として、今の国連は「平和を壊す」と判定されるさまざまな行為に対して、武力を用いてでも介入することができるという事実がある。なぜならこのような行為に対して、安保理は非軍事的措置だけでなく軍事的措置をとると決定することもできるからである(国連憲章41条、42条)。

また、国連による武力行使が認められる新しい正戦論は、誰か(いずれかの国)が正しさを実行してくれればいいという思潮に支えられている。「それは三つの要素に分けられる。第一に、少なくともその思潮を支持する人々の間では、正しさについての確信があることである。国内の少数派を迫害することは絶対的不正であり、その加害者を武力で懲罰することは正しい、というように。第二に、ある種の国際連帯主義が存在していることである。他人の苦しみを放置できないし、それを救うためならわが身の危険もいとわない、というように。第三に、そのように正義と連帯に基礎をおく行為は理にかなったものだという、理性主義への確信があることである。たんなる情緒ではなく理性である以上、そこに誤謬があるはずはない、というように。」[4]

 

 

4.イラク戦争

 

4−a 開戦理由

 公式発表によるものだと、「イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、かつ現在もその保有の可能性が世界の安保環境を脅かしている」「独裁者サッダーム・フセインが国内でクルド人を弾圧するなど、多くの圧政を行なっている」「度重なる国連査察の妨害により、大量破壊兵器の破棄確認が困難である」「度重なる査察妨害によって、湾岸戦争の停戦決議である国連安保理決議687が破られている」「決議1441では最後の機会が与えられたのにも関わらず、イラク側は査察に積極的な協力をしていない」等の理由がある。

 これらはいずれも国連が武力行使をするのに値する「平和を壊す行為」にあたる。武力行使をすべき理由がしっかりとあるのだ。

 

4−b 「テロと戦う国際同盟」の先頭に立つアメリカ

 イラク戦争は国連の中で反対が起きていたのにも関わらず、アメリカがはじめた戦争である。どうしてアメリカはそんなにイラク戦争がしたかったのだろうか。9・11に代表されるアメリカで起きたテロと戦うのか、それともテロリズム一般に対する戦いなのか。いったいなにに復讐しようというのか。それは約三千人の人命の悲劇的損失にか、マンハッタンの1500万平方フィートのオフィス空間が焼失したことにか、ペンタゴンの一部が破壊されたことにか、何万もの職が失われたことにか、航空会社のいくつかが破産の危機に見舞われそうになったことにか、はたまたニューヨークの株式市場の暴落にか。それとも何かそれ以上のものに対してなのか。

 考えられる原因はたくさんあるが、アメリカの主張するイラク戦争の目的は、イラク国民の救済なのである。

 

 

.まとめ

 

私は、イラク戦争をするべきであったと考える。中東の独裁者サダム・フセインは、殺人者であり、テロリストである。逮捕して処刑するのが当然だろう。イラク国民がなにもできないから、他国が武力行使によって、イラクの無慈悲な独裁者からイラク国民を解放してやるのだ。これは、そのための正義の戦争なのだ。フセインを弁護する理由はどこにあるのだろう。数年後、フセインを倒さなかったがため、中東がどうなるのか、予測すれば、対処策は自ずとあきらかじゃないのか?そんなことを見逃すようではテロリストと独裁者を認めてしまうことになる。テロ国家を21世紀に存在させてはいけない。力をもって彼らを封じるべきである。

戦後の平和再構築事業が順調ではなくても、それは独裁者のいない新しい国を一からつくりなおすため、また将来のために、必要な苦難である。
 戦争は悪だ、というのはきれいごとなのだ。未来の世代のためにも、戦争が必要なときもある。戦争には間違った戦争と、正しい戦争があるのだ。とにかく、イラク戦争の本当のきっかけはなんであれ、「平和を壊す行為」をしたイラクの独裁者に、アメリカが代表して制裁を加えたことは事実であり、正しいことであるといえる。

 

 

参考文献

・これからの「正義」の話をしよう マイケル・サンデル著

・「おろかもの」の正義論 小林和之著

・アメリカの正義の裏側 スコット・タイラー著

・なぜわれわれは戦争をしているのか ノーマン・メイラー著

・人道的介入 正義の武力行使はあるのか 最上敏樹著

・イラク戦争データブック 山内昌之、大野元裕 編

・帝国を壊すために 戦争と平和をめぐるエッセイ アルンダティ・ロイ著

 

 



[1] 大辞林

[2] 大辞林

[3] 「おろかもの」の正義論 小林和之著

 

[4]人道的介入 正義の武力行使はあるのか 最上敏樹著